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高橋信次先生に学ぶ

高橋信次先生に学ぶ

光を入れてやることは良いことだからといっ

- 光を入れてやることは良いことだからといって無闇にやると危険である -


病気になったのは、その人に病気になるような心の原因があったのであり、また憑依されたのは、憑依されるにふさわしい心を持っていたからであって、その人が病気になるとか不幸になっているのは、どうしてそうなったかを反省して、その心の原困を取除くことをしなければならない。

だから高橋信次先生は「反省は神の慈悲である」と言っていられたのである。

人問は反省するということによって、次第に心を大きく成長させていかなければならないのである。

折角反省する機会を与えられながら、その病人に反省することをさせずに、病気だけを治してやろうとすることは、その人から反省の機会を奪って、霊の進歩を阻害することになるのであるから、本当にその人に親切であり、愛が深いというわけにゆかないのである。

その人に反省をさせず、霊の進歩のチャンスを奪ってしまったということは、神が創られた霊の進歩のルールを阻害するわけであるから、病気だけを治すということはいけないのである。

大抵の医者が三代続かず、と言われるのは、心の救いをせずに病気だけを治そうとして、折角反省を通して霊の進歩を図らなければならないのに、その進歩のルールに反したという罪を受けなければならないからである。

このことは他力信仰についてもいえることである。

他力信仰はその人の心を変えさせる事よりも、拝ませたり、お経をあげさせたり、会員を増やさせ金を上げさせ本や新聞を売らせたりする。

医者と宗教家と立場や手段は違うが、反省のチャンスを奪って霊の進歩を阻害したということは同じである。

だから光りを入れて上げる場合はその前によく正法の話をして、反省する心を起させてからしなければいけないのである。

大体15歳以下の子供の病気は、親に原因があるのであるから親がよく反省をして、
「自分達、親の不調和が原因で何も知らない純心なあなたの心に歪みをつくって、可愛いあなたをこんな病気にして苦しませて申訳ありませんでした。」

と子供に詫びる心で光りを入れると、良くなるのである。

相手が憑依されている場合は、憑依している霊の側からいえば、憑依しなければならない正当な理由があるわけである。

それを強引に断りもなしに引き離そうとすると憑依霊が復響する場合があるから、憑依霊にも正法を話してよく救われてゆくようにして納得させなければけないのである。

また、家族は早く病人を治したいと思っているのに、病人自身が治りたくないと思っている場合は効果がない。
だから病気をしている本人が、治りたいと思っているかどうかを確かめることが大事である。

また本人が治ることを願っていたとしても、健康になったらまた前と同じように我欲を張って間違った道を歩ゆもうとしているのであれば、これまた霊を進歩させないばかりか、むしろ退歩させることになる。

その場合は病気を治させるよりも、病人のままで置いた方が、本人に悪いことをさせないだけでもよい、ということになるから病気が良くなったら何をするか、どういう人間になりたいと思っているのであるかを、よく決心させなければいけない。




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